教え人、極め人の学校エピソード

社会人になってから今でもときどき思い出すのが、学生だった当時の授業のこと。
とくに大学のときに毎度の授業での講義を通して分かる教授の博識の凄さには圧倒されてしまうものがあると思っていた。ミッションスクールじゃないんだけどキリスト教の教えがベースにある学校だったため、教授という役割を兼ねた神父さんもいてそういう教授の授業はとくに印象的だったかな。
大学の教授になるぐらいだから何も神父さんじゃなくても一定以上の学識や力量あってこそ務まるものなのだろうが、何しろ知識量が半端ではない。神父さんであるぐらいだから、当然キリスト教や聖書関係の授業があったり、聖書といえばつきものの語源であるギリシャ語の授業も同じ教授が手掛けていたり、一人でよくそんなに守備範囲があるものだという時点で十分凄い。宗教や信仰の押しつけは一切なかったところもまたよかった。
先生や教授という、教える立場というものは年がら年中ひっきりなしに自分で教えながら復習もしているだけに、身に着けたことや頭に叩き込んだことを忘れようがないのだろうが、いろいろと生徒に教えるに当たり、黒板にダーッと教える内容をいろいろ書き出すときはもうすべてがその教授にとって当たり前のことのようにスラスラ出てくるしで、教えることで生活してる人の凄みというものの手ごたえをいつも感じていた。
ただ、知識量の半端なさの凄みがあるのは山々なのだが、知っている、分かっている=教えられる、ではないこともまた事実だ。
そうなると、「難しいことを、知らない人や初心者に分かるように分かる言葉で教える」という技量が必要になってくる。そこが教師とか先生の凄いところ。生徒には一人一人公平に向き合う姿勢も必要だろうし、大変なエネルギーのいる仕事だと思う。
それにしても大学の講義の1コマ90分という枠の中、1時間半もの間教壇に立ってずーっと話しをしてるっていうのは凄いことだ。やっぱり教えるということを極めた教え人というものは、ただ知識があるだけでは務まらないのだなと、当時いろいろ講義を受けた私は大学を旅立って社会人になった今になっても何かと再学習させられる。脚を細くする方法